間違った経営学がはびこる背景
幸福学、ポジティブ心理学、等10年位前から、ある意味ブームになっています。
しかし、なぜかしっくりきません。
幸せとは何か?についての議論が深められていないからだと感じます。
このことは、その背景に、学者の評価と切り離すことができない。なぜなら、論文の提出数が評価されるようなことがあるからです。
「Creating Shared Value」略してCSV、日本語で「共有価値の創造」とか「共創価値」と訳される新しい経営戦略の考え方があります。2006年に米国マイケル・ポーター教授とマーク・クラマー氏共著「競争優位のCSR戦略」という論文で発表されてから、急に注目をされるようになりました。さらに、1980年代、一世を風靡した「競争の戦略」「競争優位の戦略」について、踏み込んだ発言を、マイケルポーターはしています。
「私は、間違っていました・・」と
ある意味、私自身は、正直なコメントでかえって共感を得ました。
しかし、日本のビジネス書などには、そのことは一切触れられていません。しかし、海外では当たり前に、マイケルポーターのこの自己否定とも発言に対してそのまま伝えています。多くのことを定量的なことを重視するマイケルポーターの限界を、晩年、自分自身で理解したのだと想像します。
人を大切にする経営とは・・・数値化できない・・のが本当のところではないでしょうか?
何でもかんでも数値化し、因子分析するいったスタンスに学者の限界があると思います。
日本流の忖度でしょうか?
いずれにしても、マイケルポーターの発言は、インターネットの時代で、そのまま直接伝わる時代において、伝わらないのは、ある種の意図を感じてしまいます。
ポジティブ心理学でも、ネガティブなことは否定していません。しかし、真のポジティブについての追求がどの位なされているかといえば、バラツキがあります。
海外のポジティブ心理学のテキスト POCITIVE PSYCHOLOGY によれば、
ポジティブとは、前向きな心+意義・意味のある心=WELL BEINNG
といったことで紹介されています。
もちろん、身体的な健康も重要です。なぜなら、健康を失えば、全てを失うからです。
これは、ハーツバーグの動機づけ実験の結果と、基本的には同じ構図になっています。
衛生要因と促進要因に分けられ、衣食住、人間関係を満たされることは、不満を削減することにはなるが、促進要因、やる気が高まる要因にはならないといった研究結果と同じです。
しかし、真に幸せな状況とは、どのようなものでしょうか?
お誕生日を開いてくれるのも一因です。社員旅行に行けるのも一因です。しかし、そうしたことだけでしょうか?
「人の役に立つ」「自分自身が納得できる仕事ができる」「何かの困難を乗り切った」
そこから生まれた心の在り様が真の幸せなのだと思います。
本ブログのテーマに戻ります。
大学に研究の世界では、経営と同じように、手段と目的が逆転してしまっていることが常態化していると思います。
人を幸せにすることが、経営学だけでなく、あらゆる活動の真の目的なのに、坂本会長が言われるように、効果・効率中心の経営が当り前になっているのが現実です。(もちろん、全てとは言いません。素晴らしい研究をされているかたもいると思います)
一つ問題提起をしたいと思います。
幸せとは、幸せでない状態から幸せになるといったゴールがあるものでしょうか?
そして、幸せになったら、生産性が上がるといったものでしょうか?
確かに、過去の論文では、そういった結果もあるかもしれません。
私なりの整理された答えはありますが、ここでは書きません。
「人本経営は、善意や道徳ではなく、企業経営のあるべき姿」
双童日用品有限公司 楼仲平 主讲人が発したことが、私自身が感じていることを、率直に表現されて、背中が震える思いでした。
ブラック企業、ホワイト企業、幸福学・・・・その他、いろいろな言葉が飛び交います。
しかし、そうした言葉に踊らされたくないと思います。なぜなら、例えば、人を大切にする経営、人を幸せになる経営は、双童日用品有限公司 楼仲平 主讲人が言ったように、ゴールがあるものではなく、求め続けるものであり、あるべき姿そのものだからだと思うからです。
もう一つの限界は、アメリカのNTLが破綻しかけているといった現実です。
このことは、またの機会にしますが、経営学は学際的です。一面的なことで経営の全てを語ることはできません。
では、どうすべきか、論文の数といったおかしな目的を捨て去ること、自分自身が知っていることが、世界中にある様々なことからすれば、極僅かであるといった謙虚な気持ちになること、学問も目的は、自分がおつむの良さを証明するのではなく、世の中に役立つことを提供することだと思います。
科研費(税金)を使い、研究された論文が、どの位、世の中の役にたったかを、国自身も、さらに、直接的にその科研費を使った学者自身も、しっかりと考えなければ、学問は、単なる評論、遊びと言われても仕方がないのではないでしょうか?
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