アフラック創業者 大竹美喜の生き方

大竹 美喜(おおたけ よしき、男性、1939年5月14日 – )は、日本の実業家。アメリカンファミリー生命保険(AFLAC)日本支社設立者、元社長・最高顧問。日本における外資系生命保険・がん保険の草分け。広島県庄原市出身。

日本のシベリアと呼ばれた中国山地豪雪地域の農家に生まれました。広島県立庄原実業高校在学中は、サッカー部を創設するなどスポーツ少年でした。生徒会会長として、偏差値教育を導入する高校に真っ向反対し生徒によるストライキを敢行する熱血漢を発揮しました。広島農業短期大学(現県立広島大学)卒業後、市長から農村の指導者になって欲しいと頼まれ、1960年に畜産技師を目指し米国に留学。しかし帰国した時は高度成長期の最中で農業は衰退しかかっており、転換期で諦め、地元選出の代議士・永山忠則(元自治大臣)の秘書となります。ところが、政治の腐敗ぶりが嫌になり三年で辞め、永山議員が社会保険制度の専門だった事もあり、AIU保険会社に就職しトップセールスマンとなります。またアリコジャパン設立にも関わりました。その後これら外資系保険の代理店を起業。32歳の時、「がん保険」専門で米国では歴史の浅い『アメリカンファミリー生命保険』の創業者・ウィリアム・エイモスから「日本市場進出がうまくいかず困っている、引き受けてくれないか」と頼まれ、自身の代理店を兼ね同社東京事務所代表となります。

1971年の生命保険業界は、多くの商品を揃えた大手国内保険会社が市場を独占。外資系生命保険の新規認可は困難で、また、がん保険は日本では未開拓の分野。日本人は特にがんに対して強い抵抗があり、がん保険一本で行くという大竹に「うまくいく訳ない、やめとけ」とまわりから忠告されました。がん保険の許可申請に多くの困難を伴い、ついには本社からも「もういい」と言われて手を引かれ、事業はドン底をつけました。このため自ら借金をして会社を存続させながら、当時の金融界のフィクサーであった常盤橋経済研究所の大橋薫 (経済評論家) や当時の大蔵大臣福田赳夫を動かし大蔵省、厚生省と折衝を重ね2年半かけてようやく認可を取得したのです。 (大東亜省出身でジャパンタイムスの記者であった大橋薫 や大蔵省出身の福田は各都市銀行頭取クラス及び大蔵省の局長以上に対し影響力は絶大だった)

奔走中、田中角栄首相から「公的な医療保険、社会保険制度は遠からず崩壊する。これからは君達民間が主役で公は脇役だ。いい仕事を持ち込んでくれた」と激励されたことが信念につながります。

1974年、日本初の「がん保険」を発売し『アメリカンファミリー生命保険(AFLAC、アフラック)日本社』を設立。以後「がん保険」を柱に、これも日本で未開拓だった「痴呆介護保険」などの商品をヒットさせる。また当時損保業界にしか無かった代理店制度を初めて生命保険会社に導入。オイルショック後の不景気もあって代理店希望が急増、またCM枠もガラ空きでCMも安く打て「がん保険」を世に広める事ができた。こうして同社を個人生命保険保有契約件数日本一、総資産約5兆円、国内最大の外資系生命保険会社に急成長させたのです。一時、米国親会社の3倍の収益を上げ、日本支社の保険料収入が全世界の7割を占めたこともあります。1986年同社社長・米AFLAC本社取締役を兼任。1995年に会長、2003年には最高顧問となる。

何度も修羅場を経験したすえに、今も太陽のような笑顔を振りまきながら社会に提言を続けています。          (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

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