NHK大河『どうする家康』を仕事に活かす 松平信康篇
徳川家康の正室、築山殿(瀬名)は今川家の人間です。家康が青春時代を駿府で人質生活を営む中で、今川家との関係強化のため結婚し、長男信康を産みました。
家康が武田信玄への備えとして本拠地を岡崎から浜松に移した時、築山殿と長男の信康は岡崎城に残り、三河の国を守りました。信康は織田家との同盟のため信長の長女・徳姫と結婚します。築山殿が夫の家康と同居せずに、息子夫婦と同居することに不自然さがあります。
信康の嫁である徳姫が築山殿の存在を煙たがっていたのは間違いありません。徳姫が女子を産むものの男子を産まないことを受けて、息子に側室をあてがっています。
通説では・・・
徳姫は父・信長に、築山殿・信康殿が武田勝頼と通じ織田への裏切りなど十二箇条の訴状を送付。
信長は家康家臣の酒井忠次に真偽を確認すると、忠次は弁解しなかった。
家康は信長の命令に従い、築山殿・信康に切腹を命じた。
最近の研究では・・・
訴状が信長に届く前から、家康は信康が築山殿を通じて武田とつながっていることを承知していた。
織田よりの浜松城と武田寄りの岡崎城で家臣団の対立が生じていた。
築山殿との不仲と信康の乱暴な素行を嫌い積極的に切腹を命じた。
信康とはいかなる人物だったのか?
- 信康は武勇に優れた武将であったが、一方で粗暴な部分もあった。また信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという(『三河物語』)
- 天正3年(1575年)、家康の小山城攻めの際、信康は諸軍を家康とともに指揮して武田勝頼も驚いたという。さらに小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から「まことの勇将なり。」と大いに褒められたという(『徳川実記』)
- 信康の母築山殿は岡崎城に同居していたが、城主・信康を差し置いて当時の女性としては珍しく直接表に出て家臣らの岡崎衆に音信することがあった(『家忠日記』天正6年2月4日条)
- 天正7年8月前ごろには、家康の命令も聞かず、信長も軽視し、家臣にも意見が違うと厳しく当たるようになった(『当代記』天正7年8月5日条)
信康の切腹の後、首は織田信長に送られました。 徳姫は丁重な家康の見送りを受け、織田家に帰りました。
後継者育成
あなたが家康ならどうする?
人を大切にする経営学会:根本幸治
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