NHK大河「どうする家康」を仕事に生かす 家康誤算の尊王攘夷

徳川家康は、豊臣家を滅亡させた後も、綿密に幕府守護の仕掛けを施しました。法律によって武士や公家を縛り、儒教によって実力主義を排除し、自らが神となり江戸幕府の守護神となりました。

家康が恐れた幕府への対抗者は、天皇と西国大名(関ケ原決戦の敗者である毛利と島津)でした。

また、将軍本家に跡継ぎが途絶えても、分家の尾張徳川家か紀州徳川家から養子をとることでつなぎ、両者の裁定は水戸徳川家が担うと定めました。水戸徳川家から将軍を輩出することはできません。

8代将軍吉宗の時代から、吉宗自身の子孫である一橋家・清水家・田安家からも将軍を輩出できるようにしました。

将軍後継の裁定者である水戸家では、家康の孫である水戸光圀が「大日本史」を作成し、日本の政治の根幹は天皇から委託された将軍が大名を統括するという、『尊王』という大義を明確にしました。

ここで、家康が想定しなかった矛盾が芽生えます。

幕末に水戸徳川家で慶喜が誕生し、父・斉昭から、将軍家に逆らっても朝敵になることなく尊王を貫け、と薫陶され育ちます。

そして、慶喜は一橋家に養子に入り、皮肉な巡り合わせで将軍になってしまうのです。

慶喜同様に水戸学の尊王を吸収したのが、毛利長州藩の吉田松陰です。水戸藩の藩校である弘道館で「尊王攘夷」を学んだ松陰は毛利藩を動かし、家康以来の祖法である鎖国・攘夷を将軍に求めました。

しかし、幕閣大老の井伊直弼は、孝明天皇の鎖国継続の意志を無視して、開国を決断します。

井伊直弼は水戸浪人に桜田門外で襲撃され暗殺されます。幕閣暗殺は徳川政権の弱体化を加速させ、「尊王攘夷」という言葉は倒幕を意味するように変化します。

15代将軍となった慶喜は、孝明天皇の意志を尊重するも、開国という世の流れに抗しきれず、大政奉還という形で政権を朝廷に返上し、家康以来の徳川幕府は264年の歴史で消滅します。        (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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