新聞休刊日

今日は新聞休刊日

今はネットの方が情報が速い。

全体を見るのは新聞の方が良い。

64歳の私、
両親が3歳のときに離婚して母子家庭となった。
貧しいとは思わなかったが、家庭の足しとなると思って、中学1年生の亡くなった母の誕生日から地元の信濃毎日新聞の朝刊の配達を高校卒業までやった。

50年前なので一冬で3回は30センチから50センチほどの雪で、自転車を引っ張った。投げ出しいと思ったが、何とか続けた。

一年浪人と大学4年間は東京で朝日新聞の朝夕刊の配達と集金、拡販をやった。

通算11年間。一番学んだことは、気持ち良い応対をお嬢さんがすれば、家族も気持ち良い応対。逆も。会社もトップ次第。組織はトップ次第ということを学んだ。根気強さも身についた。
私の時は休刊日が年に3回程度しかなかったが、今は毎月のようにある。

以上が最初の仕事になる。

2番目の仕事は定年退職まで36年間、TKCさんで勤務したこと。会計事務所とそのお客様企業を4000以上訪問したこと。累計だと凄い訪問数になる。

何度か訪問していると、清々しい雰囲気になることがある。大学院で学んだ人に優しい風土だ。

相談があり、時間があれば直ぐ飛んでいったことも多い。名古屋から伊勢へ、高山へ。沼津へ。出身地の長野県の松本勤務の時は、松本から長野間は高速が開通していなかった。冬は大変だった。

会計事務所を開業してから、長年、共に歩んできた職員、社員が退職する、所長にはショックで直ぐ飛んで行った。2度目までは所長先生と飲み明かしただけで解決策は提示できなかった。

が、3度目に共通点を見つけた。所長が嫌で退職するのではなかった。手書きの時代で会計事務所で手書きからお客様企業に指導してお客様企業に書いていただき、合っているか確認する巡回監査への流れは、私にはついていけないという理由だった。

即、所長先生にアドバイスをした。所長の知っている手書きの会計事務所への転職を勧めた。以後、同じ相談には、所長先生おめでとうございます。変革の成功の最初の証ですと褒めた。

ある所長が新しい職員、社員は素晴らしいと紹介されたが、所長先生だけには、先生の事務所には合っていないと行った。数か月後に事務所と合わなかったのか、退職した。

TKCさんを定年退職後、1年後に法政大学大学院 坂本 光司教授の門を叩き3月で4年になる。
3番目の学びだ。
一番勉強になったのは、教授に同行した企業視察が320社を超えたこと。

社員とその家族の幸せを大切にする経営の共通点が分かるので、初めて訪問した企業でも素晴らしい点と改善する点をアドバイスできる。
また、お互いに情報交換をする企業を紹介したりベンチマークをする企業をアドバイスできる。雑誌等家テレビ番組を見てきたので320社に加わったことも大きい。

中学1年の時からの共通点は、現場に行くだろう。

小学生の時に松代群発地震があり、松代地震研究所に訪問した。壁新聞にした。

小さい頃は橋幸夫が人気でみかん箱に乗って歌手を目指していたと母から聞いた。朝日新聞の記者になるのが夢だったが、大学3年の時に夢が破れた。新聞配達の現場で二つの矛盾を感じたからだ。

一つ目は毎年、12月になると読者がいない、誰も読まない新聞が数百部、新聞社から送られてくる。元日の発行部数で年間の新聞社の広告料が決定するからだ。

二つ目は95パーセントの読者は他紙へ浮気をしないが、5パーセントの読者は他紙を渡り歩く。そのたびに1か月無料になったり洗剤等が無料で渡る。

ネット等の影響で新聞の購読数は減少して二つの矛盾はなくなっているようだ。

坂本光司ゼミで1年生の5月2日からゼミブロへ毎週投稿した。

北陸始め日本海側を主に今朝は新聞休刊日で良かったが、夕刊、明日の朝刊は新聞を投げ出したいだろう。

人間の成長にはうってつけだ。

50年前、雪や寒い日は亡くなった母がブリキのタライにお湯を入れて待ってくれていた。

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