渋沢栄一の福祉事業

先週投稿の「NHK青天を衝け 抜かずの宝刀」にコメントをいただき、ありがとうございました。特に福祉事業についてのコメントが多かったのは、やはり坂本先生の弱者に寄り添う態度に共感される皆さんが読者として存在しているためと推察します。渋沢栄一は資本主義の父と呼ばれていますが、彼の福祉に対する熱意と行動は坂本先生と重なって見えます。渋沢が活躍した明治大正時代は福祉が誕生し制度が立ち上がる発展期に当たります。

東京養育院(現・東京都健康長寿医療センター)は、渋沢が院長を務めました。東京養育院というのは1872(明治5)年に、今ではホームレスと呼ばれている人たちが入所するために始まりました。入所者には、高齢者、病者など多様な人がいたために、派生していろいろな施設につながっていくことにもなりました。渋沢は長く院長として養育院の維持、発展に尽力しました。板橋区栄町に銅像が置かれています。聖路加病院の設立にも関わっています。

全国社会福祉協議会という、福祉団体があります。民間の立場で地域福祉を推進する全国組織です。この団体は1908年に中央慈善協会という名称で始まりますが、初代会長が渋沢でした。渋沢が会長になったのは、渋沢は慈善事業と深い関係があったからです。

法制度が不十分な時代、民間人が自力で施設を設置して、生活困難な人を支援しました。そういう活動を慈善事業と呼びます。慈善事業は崇高な理念を掲げて創設されるのですが、実際に運営していくと資金不足に悩まされます。渋沢はしばしば資金援助をして支えました。資金援助ができたのは、富裕だったからできたことだという批判が可能かもしれません。しかし渋沢はお金を出すだけでなく、施設の責任を担って支えた行動者です。

滝乃川学園という、知的障害児の施設があります。1920年に火災が発生して、建物が焼失し、障害児教育のための資料や教材も焼けました。何より入所児6名が死亡します。責任を痛感した創業者の石井亮一夫妻は、学園の廃止を考えます。学園の存続を願う人々の声を受けて、再建することになりましたが、それは経済的にも精神的にも厳しいことでした。そういう状況で渋沢は、法人の理事長として再建に尽力しました。

救護法という、今の生活保護法の前身にあたる法律が1929年に制定されます。制定後の新政権(浜口民政党政権)は緊縮財政をとり、実施されないことになりました。方面委員(今の民生委員)らによる実施要求にもかかわらず、政府は動きません。渋沢はすでに高齢であり、しかも病気でありながら、すみやかな実施を求めて自ら政府に陳情に出向きました。救護法は渋沢の努力が実ってようやく1932年から実施されますが、実施の時点で渋沢は死去していて、実施の日を見ることはできませんでした。(学会員:根本幸治)

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