NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・武田家臣団篇

徳川家康を頂点とする徳川家臣団は、徳川四天王や徳川十六神将が有名です。ここでは、家康を震え上がらせた武田信玄が率いる武田二四将に触れてみます。

そもそも信玄が武田家の棟梁になったのは、家臣の勧めで実の父親である武田家18代当主・武田信虎を甲斐国から追放したことによります。

事件の背景には諸説あります。信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがあります。いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因と思われます。また、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたといいます。

当主となった信玄は、親愛なる家臣に支えられて躍進を開始したのか、そうではなさそうです。

19代当主となった直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られました。信濃国を平定するも、村上義清には2回戦って2回負けています。上田原の戦いにおいて武田方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしました。

若い信玄にとって、先祖代々の家臣団は扱いにくい先輩役員でした。彼らの信頼を得るために必要だった実績作りは、戦に勝つことだけでなく、領土経営そのものが大事でした。川の氾濫を防ぐ治水工事、甲州金山の開発、温泉の開発も今でいう福利厚生施設です。

越後の上杉謙信が宿敵のライバルとして北方面で対決するにあたり、南方面で駿河の今川及び関東の北条とは強い同盟関係を結ぶため婚姻を重ねました。

甲斐では収入増が期待できない家臣団は、他国を侵略することで収入を増やし、互いに連携して日本最強の武装集団として名を馳せました。

武田家臣団は、武田家当主に絶対服従する集団ではなく、当主の交代を迫ったり、会議での政策決定を重視しています。信玄もかなり気を使っています。そのために、自分の嫡男を殺害しています。後継者の四男勝頼は諏訪氏の娘ということで家臣団からの信頼獲得は難しかった。家臣が裏切り織田家に流れるのです。ついには源氏の名門の武田家は滅亡します。

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