NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 信長の危機管理篇

織田信長は、信頼する家臣の明智光秀の謀反により本能寺を襲撃され暗殺されます。天正10年6月2日(1582年6月21日)享年49歳。

武田家(武田勝頼)を滅亡させるべく信州・甲斐に進撃し、東海道を豪勢な物見遊山で凱旋帰国してわずか3か月足らずのことです。

5月14日織田信長は明智光秀に翌日に安土を訪れる徳川家康の饗応役を指示しました。光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなしました。

ところが、17日に羽柴秀吉から、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請する手紙が届きます。信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と決意しました。光秀とその与力衆(細川藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀)には援軍の先陣を務めるように命じました。光秀は急遽17日中に琵琶湖に面した居城の坂本城に戻り、出陣の準備を始めます。

26日、1万3千の軍勢を率いる光秀は坂本城を出陣し別の居城である丹波の亀山城に移ります。27日に、光秀は亀山の北にある愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、裏切りを決意するためにおみくじを3度も引きました。光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉など百個の荷物を運ぶ輜重隊を毛利勢のいる西国へ先発させます。

29日、信長は近江の安土城にて留守居衆と御番衆に、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じ、自分は供廻りを連れずに小姓衆のみわずか30人を連れて京都に上洛し、定宿であった本能寺に入ります。大軍勢での毛利攻め出陣は早くとも5日以降であったと推測されます。安土より38点の茶の名器をわざわざ京に運ばせ茶会を開いて披露します。博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝の獲得が目的で、信長はこれを自分に譲らせようとしたと言われています。

6月1日、信長は、近衛前久や勧修寺晴豊などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開きます。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より嫡男で既に織田家の当主である信忠が来訪します。信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わしました。深夜になって信忠が帰った後も、信長は囲碁の対局を観戦し、しばらく後に就寝しました。

2日曙(午前4時ごろ)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えます。3,000余騎と言われます。寺内にはほとんど相手はおらず、門も開きっぱなしであったといいます。

信長や小姓衆は包囲の喧噪をケンカだと思いましたが、明智勢は鬨の声を上げ、御殿に鉄砲を撃ち込みます。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか」と蘭丸に尋ねて物見に行かせます。この時信長は、自分の嫡男の信忠を疑います。ところが、蘭丸は「明智の軍勢と見受けます」と報告し、信長は「やむをえぬ(是非に及ばず)」と自ら応戦します。

信長は初め弓を持って戦うも弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷を受けて建物内に入ります。信長は付き従っていた女房衆を逃がします。すでに御殿には火がかけられ、火の手が及びます。信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹しました。この討ち入りが終わったのが午前8時前とされています。明智勢は必死になって信長の遺体を探しますが、見つけることができませんでした。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

『真書太閤記 本能寺焼討之図』

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