NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 光秀の危機管理篇
明智光秀は、織田信長の油断を衝き、本能寺の変で暗殺に成功します。1582年6月2日の京都でした。
光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行います。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとしますが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかりました。光秀は、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどしました。
6月7日には誠仁親王(正親町天皇の嫡男)は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せています。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺も銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。
つまり、光秀が最初に行動したのは、朝廷との友好関係づくりであり、光秀追討軍への対応ではありませんでした。
光秀は姻戚関係の丹後の細川幽斎・忠興親子を味方に引き入れて一緒に新しい世界を作ろうと呼びかけますが、幽斎は信長への弔意を示すために髻を払い、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶しました。
また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方しました。また、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられました。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して引き返してきた羽柴秀吉は、事変から11日後の6月13日に、山崎(京都府)に進出し迎え撃ち、光秀を負かしました。
光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(京都市)で落ち武者狩りの農民に竹やりで刺されて殺害されました。光秀と秀満、および明智勢に加わった武将の一族も山崎の戦い後において織田勢の追討により尽く誅され、明智氏はこれにおいて断絶しました。
(人を大切にする経営学会:根本幸治)
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