NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 関ケ原決戦の人事評価

1600年の関ヶ原の戦いで実質的に論功行賞を行ったのは、政権トップの豊臣秀頼ではなく大老の徳川家康でした。

関ヶ原決戦の先陣は福島正則、勝利を決定付けたのは小早川秀秋、西軍諸侯を東軍に寝返りさせたのは黒田長政。徳川家康が勝利できたのは、この3人の豊臣恩顧の大名のおかげのはずです。

では、実際の加増を見てみましょう。

明らかに、戦功というよりも戦後の徳川政権を意識して、親族に甘い評価となっています。婚姻で親族に組み込んだのは豊臣恩顧の有力大名です。

家康自身も400万石と他の大名と大きく差を広げています。                       秀吉でさえ222万石でした。そして、豊臣家を65万石に抑えます。

一方で、側近の徳川四天王に高い俸禄は与えず、甘くありません。ケチと言われるゆえんです。

歴史的知名度の高い小早川秀秋の行動が、あまり評価されなかったように思えます。敵方の裏切りのおかげで天下を取れたと認めるわけにはいかないのでしょう。

松平忠吉(家康四男)が一番手柄として評価されたのは異常です。彼は、福島正則が名誉ある先陣と家康により定められていたにもかかわらず、正則を抜け駆けして鉄砲隊数人で発砲してすぐに後退し、ほとんど戦闘をしていません。徳川家としては、豊臣恩顧の大名のおかげで天下を取れたと思われたくなかったのです。

徳川本隊を率いた秀忠が遅参したことに対して、家康は「切腹に値する」と激怒しました。ただ、母親が名家出身というだけの凡庸な三男を将軍にすることが徳川政権には好都合であり、優秀な次男の結城秀康を選択しなかったのは、成果主義が招く組織内の不安定化を見抜いていたのかもしれません。                                           (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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