NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 大坂の陣の経緯

1614年 方広寺鐘名事件

徳川家康は、豊臣家の財産を削減させるべく、秀頼に「神社仏閣への寄進こそ太閤殿下への供養」と推奨し続け、巨額の建設費を負担させ続けました。中でも方広寺は、秀吉が焼損した東大寺の大仏に代わるさらに大きな大仏(京の大仏)を作る計画だったものです。方広寺大仏と大仏殿の再建が完了して落慶供養の段取りを片桐勝元が進め、家康との協議も行いました。

梵鐘が完成し、片桐且元は、銘文の筆者として南禅寺の文英清韓を選定し、清韓は以下のような鐘銘文を書きました。

欽惟 豊国神君 昔年 掌普天之下                                前文 外施仁政 前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公 天子万歳 台齢千秋             銘曰 洛陽東麓 舎那道場 聳空瓊殿 横虹画梁 参差萬瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方 境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 商音永煌 響応遠近 律中宮商 十八声縵 百八声忙 夜禅昼誦 夕燈晨香 上界聞竺 遠寺知湘 東迎素月 西送斜陽 玉筍堀池 豊山降霜 告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量 所庶幾者 国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 法社金湯 英檀之徳 山高水長                            慶長十九年甲寅歳孟夏十六日 大檀那正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公 奉行片桐東市正豊臣且元 冶工名護屋越前少掾菅原三昌                                      前住東福後住南禅文英叟清韓謹書

家康は五山の僧や林羅山に、豊臣方の選定した梵鐘の銘文を解読させました。羅山が問題にしたのは、鐘銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかと指摘しました。ヤクザの言いがかりです。もし豊臣方による呪詛が本当ならこの鐘が今も存在することはなく破壊されていたはずです。

豊臣家は鐘銘問題の弁明のため、片桐且元を駿府へ派遣します。且元は大坂城の外交・財政を取り仕切る宿老であるとともに、江戸幕府からも知行を受ける存在でした。且元は金地院崇伝らと協議を行うものの、家康には面会を拒絶されました。ところが、大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されると、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎え双方の親和に同調します。これに淀君は安心します。

且元は大坂へ戻り、豊臣家は3案の一つを採用すべきと進言しました。

①秀頼を江戸に参勤させる                           ②淀殿を人質として江戸に置く                          ③秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する

この案は豊臣方にとって受け入れられるものではなく、且元は大野治房ら他の重臣から家康との内通を疑われます。織田信雄から暗殺計画の存在を知らされた且元は、大坂城を退去し家康の下に逃げます。

江戸・大坂方共に戦争機運が高まり、大坂城からは織田信雄などの親族衆や重臣も退去します。秀頼による且元殺害の企ての報を受けた家康は激怒し、同日諸大名に出兵を命じました。豊臣方は、且元退去は家康に敵対する意図ではない、と弁明した書状を家康や諸大名に送りますが、家康はこれを策謀であるとして受け入れませんでした。こうして大坂の陣の開戦の運びとなります。                     (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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