NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 家康の終活

1615年、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。                         しかし、これが家康の終活ではありませんでした。

家康は大坂から京都に移動すると、法治国家を完成させるため、将軍秀忠の名前で次々に法度(はっと)と呼ばれる法律を作り、戦国時代の終了を確固とします。

一国一城令・・・後に福島正則は城の修築が無届として改易となります。             武家諸法度・・・私闘や勝手な婚姻を禁じ、参勤交代などを課し大名統制を固めます。                     禁中並びに公家諸法度・・・天皇や貴族の政治関与を禁じ、学問への専念を課します。

家康の最後の終活は、身内の問題でした。

秀忠の将軍職を脅かすのは、六男の松平忠輝。                         秀忠が地味で服従型なのに対し、忠輝は剛毅で野心型です。                   加えて問題だったのは、忠輝の嫁は伊達政宗の娘であり、政宗の野心が恐怖でした。

家康は大坂夏の陣の後で、軍紀に違反したとして75万石の忠輝を勘当します。

翌年、家康が危篤に陥ったとき面会に来た忠輝に会うこともしません。              さらに、政宗に対し謀反の疑いを持ち、仙台征伐を発します。                  政宗には遣欧使節を使ってスペイン国を味方に引き入れて徳川と対立する疑いがありました。

驚いた政宗は、謀反の疑いを晴らすため、病床の家康に釈明するため、駿河まで自ら飛んでいきます。                                      

家康は、政宗に言います。謀反の密告は忠輝だと。

政宗は、娘婿の忠輝との関係を切り、秀忠を支えることを誓います。

家康は75歳の天寿を全うし、死して関東を守るべく東照大権現という神になりました。        家康は徳川幕府を守るため、成果主義を廃し長幼の序を儒教で担保させました。 

松平忠輝は、24歳で父親から改易され、91歳の5代将軍の御世まで長生きします。        (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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