NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 平安京とは

奈良時代、天武天皇系の皇統が続いたがこれが絶え、天智天皇系の桓武天皇が誕生し都を奈良・平城京から移しました。                                                           

794年、山背国という辺境の土地に約5km四方の新しい都・平安京を定めました。

ところが、皆が集まって住み始めると、住み難きことがわかってきます。

天皇が住む大内裏の正門に当たる朱雀門を北にし、南の先が羅城門と呼ばれる平安京の正門をつなぐ道幅84メートルの南北を結ぶ大きな中央道が朱雀大路です。これは現在では千本通と呼ばれ道幅18メートルしかありません。現在の大きな道である堀川通や烏丸通や河原町通は、朱雀大路の東側である左京に集中しています。つまり、平安京の設計図の半分しか使われなかったのです。

では、西半分の右京はなぜ居住空間として使われなかったのでしょうか?

これは、地形が問題でした。

京都の町は北が高く南が低くなります。特に南西方向に傾斜が大きく、南西は碁盤の目のような道路も作られることなく放置され、沼地のような状態でした。右京を南北に流れる紙屋川(天神川)が氾濫を繰り返し、排水や用水のため何度も掘り返されますが、民家にできるような土地ではなくなってしまいます。

右京は住宅地ではなく耕作地として利用され、九条ねぎや京せりや水菜など京野菜が作られ、左京の人口を養っていました。また、右京は住居を持たない者や盗賊の住処になっており、平安京は治安の悪い状況でした。

検非違使という警察消防裁判組織がありましたが、人数は30人程と全くの人員不足であり、群盗(郡司・地方役人)が高級貴族の邸宅や年貢を奪い、平安京は十分に警備できなかったのです。

都を定めた桓武天皇自身が、複数の身内人を無実の罪で葬ったこともあり、悪霊が住む都として意識され、平安京という名前のような安心安全な街ではなかったのです。

さらに、桓武天皇の皇子は30人以上、嵯峨天皇の皇子は50人以上いました。これらの皇族はポストが足らず臣籍降下して貴族となって平氏・源氏の姓をもらい地方に赴任して収入を得ようとしました。彼らは農地収入や戦闘能力を持つ地方の有力豪族と血縁を結び、武士が誕生していきます。                          (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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