NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 中宮彰子

中宮彰子 藤原彰子                                     988年~1074年 享年87                                   父親:藤原道長                                       母親:源倫子                                        配偶:一条天皇  女御(皇后)                               女房:紫式部、和泉式部、赤染衛門

藤原道長と源倫子の結婚は藤原兼家の希望でした。源雅信は娘倫子を帝の后妃にしようという思いがありましたが封じ込められ、懐柔される形になりました。

彰子が一条天皇の後宮に入り女御宣下をうけたのは、わずか12歳の時です。

一条天皇20歳には既に中宮定子23歳という女御(正妻)がいました。

道長は、早く彰子に皇子を生んでもらい、外戚の地位で権力を手にしたいと思いますが、12歳では妊娠は期待できませんし、一条天皇には女御更衣が多く存在していたのです。

しかし、中宮定子は一条天皇の命令をうけた検非違使によって兄弟の藤原伊周と藤原隆家が訴追(長徳の変)されたことに衝撃を受けて出家します。定子は第一皇子・敦康親王を出産するも、公家社会の反発と支持の低下を招いていきます。

これを背景に、蔵人頭であった藤原行成が、道長の意図を汲み、一条天皇に対して彰子立后の意見具申を行い、中宮に冊立されます。このとき、后位にあった定子が存命していたため、これは史上初の一帝二后となります。

1008年、ついに彰子が懐妊します。一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産しました。彰子の女房であった紫式部の手になる『紫式部日記』にはこの懐妊・出産の様子が詳細に綴られています。道長は大いに喜びました。再び彰子は懐妊します。第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を生みます。これにより、道長の威信は大きく強まりました。

一条天皇が発病します。これを皮切りに、道長は一条天皇が譲位するよう圧力をかけます。そして、一条天皇は三条天皇に譲位します。一条院は出家するも同年32歳で崩御します。

道長は彰子に一条天皇譲位のことを一切相談しておらず、彼女は怒りを見せました。            しかし、彰子はまだ経験不足であり、この状況を打開できる政治力を持っていませんでした。   (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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