No154記憶に残る経営者の言葉54 石坂産業株式会社(埼玉県入間郡;環境リサイクル業)石坂典子社長

今回は2014年10月に坂本ゼミの視察先としてご訪問した『石坂産業株式会社』さんから印象に残った石坂典子社長の言葉をお伝えします。

産業廃棄物の受け入れという“社会の底辺産業”にあり、マスメディアや地域住民から存在を否定された苦難の時期を乗り越えた石坂典子社長の言葉には説得力とはまた違う大きな力がありました。

高校を卒業しアメリカへ留学。しかし2か月で退学。その後“遊びながら米国で生活していた” と言います。

そんな状況を見かねたお父様が渡米し帰ってくるよう説得し、20歳で石坂産業に入社します。当時の平均年齢55才。女性は石坂典子さん含めて2名のみでした。

“1999年ダイオキシン報道が社会問題化”します。当時同社の周辺は“産廃銀座”と言われ、大小60本もの煙突が立ち並ぶ一帯でした。地域の野菜は全国的に売れなくなり、産廃業者への反対運動が激化。一番大きい設備を持つ同社は批判の矢面にたったのです。

社会問題が渦巻く状況の中、石坂典子氏は、お父様に“今後会社をどうしたいか”と聞いたところ、“子供に継いでほしいと思って会社をつくった”と聞き、“社長をやらせてほしい”と頼んだそうです。31才の時でした。

父から1年間お試し社長の許可がおり、そこから皆さんがご承知の通り“焼却”ではなく最新の“リサイクル工場化”“地域に必要とされる会社”を目指した同社の大逆転経営が始まったわけです。

“一時は石坂サティアンとまで言われた”とお話くださった石坂社長。現在同社の敷地は東京ドーム3,5個分の広さを有しながらも工場面積は20%しか占めていません。残りは緑化しているのです。そして煙突は1本もありません。

最近同社は多くのメディアで取り上げられていますが、自身の身を粉にして、先頭に立ってその苦境を切り開いた石坂社長の姿や言葉からは多くを学ばなければなりません。

以前に投稿した記事は 石坂産業株式会社【No62いい会社視察2014/10/18】 です。このブログ内を検索してご参照ください。

***補足***

この投稿では「法政大学大学院 政策創造研究科 坂本研究室」や「人を大切にする経営学会」での経験をもとに毎週火曜日にお届けしております。個人的な認識をもとにした投稿になりますので、間違いや誤解をまねく表現等あった場合はご容赦いただければ幸いです。(人を大切にする経営学会会員;桝谷光洋)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です