NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・本能寺伊賀越え篇

1582年 家康41歳 三十六計逃げるに如かず 助けたのは身内ではなく外部の関係者

武田家の滅亡によって駿河を与えられた家康は、三河・遠江・駿河の三国を領することになりました。このお礼と武田戦の勝利を祝うため、家康は信長に招かれて安土城を訪問します。そして、その後は信長の勧めで上方を遊覧。家康は和泉国の堺などを楽しんでいました。

そんな家康が信長の死を知ったのは、堺から京へと上洛する途中のことでした。家康は取り乱し、一時は信長の後を追っての自刃を主張するほどだったといいます。しかし、本多忠勝らの説得により帰国を決意。中には信長の弔い合戦を望む声もありましたが、供廻り34名では戦えません。

家康一行は、伊賀越えをして伊勢から三河へ船で渡る最短ルートを選択しました。道中では山城国の土豪・山口甚介の宇治田原城や、近江国の土豪・多羅尾光俊の館などに宿泊。伊賀国に入ってからは伊賀の土豪や甲賀郷士たちの協力を得て一揆勢を追い払い、無事に岡崎城に帰還したのです。

家康とともに行動していた供廻りはわずか34名でしたが、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)ら歴戦の武将も含まれていました。彼らは落ち武者狩りの一揆を脅したり、籠絡用にと家康から配分された金品を与えたりしながら、うまく道中を通過しました。

神君伊賀越えにはさまざまな協力者がいました。家康を救った人物とは、どのような人々だったのでしょうか?

京都の商人・茶屋四郎次郎は、土豪たちに銭を渡して家康一行が無事に通過できるよう取り計らいました。そもそも堺に滞在中だった家康に早馬で信長の死を一報したのもこの人物です。茶屋四郎次郎は公儀呉服師を世襲する京都の豪商で、当主が代々「茶屋四郎次郎」を襲名しています。

服部半蔵は、徳川家譜代の家臣の子ですが、故郷の伊賀衆を動かしてさまざまな戦いで戦功をたてていました。伊賀越えの際も、伊賀者の救援を得て帰るという策を進言したのは彼だったようです。伊賀越え道中の加太峠には危険な野伏たちが潜んでいましたが、伊賀衆の守りで無事に通過できました。

伊勢商人・角屋七郎次郎は、伊勢から三河の大浜までの船を手配しました。初代秀持は伊賀越えで家康を救ったことから、徳川氏の御用商人になります。1600年には「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と廻船自由の特権を与えられました。

長谷川秀一は、織田家の家臣として家康を助けました。堺見物の案内役だった長谷川秀一は、家康一行の脱出経路を考慮したり大和国・近江国の国衆への取り次ぎを行ったりと伊賀越えの成功に貢献し、尾張国の熱田まで同行しました。

あなたの会社の絶体絶命の時、助けてくれる部外者がいますか?

あなたが家康なら、事業倒産を前にしたとき、どうする家康?                 (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

伊賀の峠

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