NHK大河『どうする家康』を仕事に活かす 鉄砲対騎馬~設楽原~篇

長篠の戦いとして有名な設楽原(したらがはら)の戦いは、初めて新兵器鉄砲 (火縄銃)を大量に使用し、その威力をまざまざと見せつけ、後の戦術に一大変革をもたらした日本史に残る著名な戦いです。

鉄砲伝来は、1542年の種子島に漂着したポルトガル商人から2丁の鉄砲を超高額での買取りでした。

設楽原の戦いは、33年後の1575年に三河国長篠城をめぐって行われました。当時最強と言われた武田勝頼率いる騎馬隊を、織田徳川連合軍が最新鋭の鉄砲を使って全滅に近い完全勝利を挙げたとされます。

しかし、鉄砲伝来33年を経て、堺などを中心に国産化が進み、諸国の大名が既に鉄砲を買い入れていたため、最新鋭の武器である鉄砲の使が勝因であると判断するのは、やや違うのではないでしょうか?

実は、武田方も鉄砲隊を組織しており、この戦いで1千丁を保有していたと考えられています。

織田徳川軍は記録に3千丁とあるなので、有利であることは間違いありません。

鉄砲の威力は、射程距離50mで70%の命中率です。欠点は次の発射まで20秒以上かかります。

騎馬隊の威力は、射程距離50mから敵まで7秒で到着するため、無理な突撃とは言えません。

鉄砲隊は横一列ですが、騎馬隊は街道を一点集中で攻めるので、全滅になることはありません。   織田徳川連合軍に信濃国を攻められて武田家が滅びるのは7年後の1582年です。

では、なぜ勝てたのでしょうか?

織田軍は三段構えでした。馬防柵は三重であり、しかも柵の前には堀とさかも木と身隠し盾です。

武田軍は一段目を突破しても二段目で押しとどめられました。

武田方の高森恵光寺は三段目に到達して討死し、敬意をこめたお墓が今も残っています。

信長は、馬防柵を現地調達したのではなく、わざわざ持ち込んでいました。

勝因は最新兵器ではなく、兵器の運用だったのです。

皆さんは、ChatGPTをうまく使いこなされてますか?

あなたが家康なら、どうする?

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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