NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 藤原実資

藤原実資(さねすけ)は、平安時代中期の公卿で、藤原北家小野宮流にあたります。

小野流の右大臣というゆえんから、小右記という日記を残しました。この日記に藤原道長の有名な短歌が記されました。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」

藤原道長は自らの日記である御堂関白記に、この歌を載せていません。

 藤原実資は、故実家(歴史家)・資産家としても知られていましたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。32歳で議政官となった有能な官僚であり、道長の政敵の立場ながら道長や頼通の相談相手でもありました。

実資は、道長の所業に対して強い批判も書き残しています。豊かな国への受領の任免権が道長の権益となっていることや、実兄藤原懐平を差し置いて、年少の教通が造宮行事所別当に任官されたことなどを批判しています。

その一方で実資は、道長の能力・人物については高く評価しており、道長も実資に一目を置いていた様子が小右記に記されています。

道長が病気になった際に、実資・道綱・隆家・懐平・通任の5人が悦んでいるという噂が立てられた際に、道長は、実資と道綱に限ってそういうことはないと述べ、道長から責任追及されるかもしれないと嘆息していた実資は安堵します。

三条天皇の病気や後一条天皇の幼少で久しく中断されていた官奏が復活して実資が職事を勤めた際に、道長は息子・教通に対し、なぜ物陰からでも実資の様子を見てその作法を学ばなかったのかと、実資に嘆いています。

道長が「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」の和歌を披露した際、道長は実資に対してこれに必ず和してもらいたい(返歌を作って欲しい)と述べました。実資は、白居易が詩を絶賛して和せず(返歌をせず)にただその詩を繰り返し吟唱した故事をあげ、居並ぶ公卿とともにその歌を数度吟詠しています。

小右記の日記から、道長が恐怖政治をするような独裁者ではない様子や、実資が権力者に媚びず道長を批判しながらも支える態度であったことがわかります。                    (人を大切にする経営学会:根本幸治)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です