NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 家康の危機管理編

徳川家康は、宿敵の武田家を滅亡した後、織田信長の招きに応じて安土城で接待を受け、堺の都市を観光していた際、本能寺の変に遭遇します。

明智光秀が1万を超える軍勢で織田信長を急襲し暗殺した報告を受け、家康は自分の命も狙われていることを知った時に味方は20名ほどしかいませんでした。

家康は、死を覚悟し京都に上って光秀と戦って自害することを決心します。それが盟友・信長への礼儀と考えました。

本田忠勝など家康の家臣たちは、脱出して自領の三河へ逃げ、光秀打倒の軍勢を整え敵討ちすることが信長への礼儀ると訴えます。

家康は家臣の意見を取り入れ、三河への脱出を決意します。いわゆる、神君伊賀越えの3日間。

家康の三河への帰還については『石川忠総留書』や『家忠日記』から堺を出立したのが6月2日、三河に帰還したのが同月4日深夜から5日未明です。しかし、一次史料が極めて少なく、その間の所要日数やルートに様々な違いがあり、伊賀越えではなく大和越えなど、複数の見解があります。

家康は堺から京都へ上洛する途中で、河内国飯盛山付近で京都から来た茶屋四郎次郎に織田信長が横死したことを知らされました。

四條畷(現・大阪府四条畷市)からわずかの供回りを連れて、まず興戸(京田辺市)の木津川の渡しに行きます。家康らを疑い別路を取っていた穴山信君が落ち武者狩りに襲われ殺されました。家康は用心しながら宇治田原で山口甚介の館に宿泊し、3日は甲賀小川で土豪多羅尾光俊(山口甚介の父)の館に宿泊します。

伊賀国柘植(現・三重県伊賀市)を経て、加太峠で一揆に襲われましたが甲賀郷士が追い払います。伊勢国長太(なご、現・三重県鈴鹿市)で乗船し、伊勢湾を横断して三河国大浜(愛知県)にたどり着き、三河国岡崎城へ帰還しました。

道をさまよいながら、襲われながら、買収しながら、支援も受けて、見事に逃げ切ったのです。

伊賀国は織田信長が大虐殺を行った土地です。家康は伊賀国衆を雇用し味方に引き入れていたことも危機管理に直結しました。ただ、服部半蔵が活躍したという話は後付けであり、実際は伊賀衆を厚遇していないという意見もあります。

いずれにしろ、情報共有できる味方を増やし敵を増やさないことは危機管理と言えそうです。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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