日に3回、食事の度に顧みる

2月末に「『食事』できることの感謝と題して」禅宗の「五観の偈」の第一につき、書かせて頂きました。そのままでは中途半端になってしまうため、本日は五観の偈をご紹介したいと思います。

前回書かせて頂きました始まりは「一には功(こう)の多少を計り、彼の来処(らいしょ)を量(はか)る」です。この意味は、「この食事がここに来るまで、いかに多くの人々の手間や苦労があったのかに、深く思いをめぐらす」ことだそうです。

「二には己が徳行の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供に応ず。」(この食事をいただくに値するほどの正しいふるまいや、世のため人のために役立つような行いをしているかどうか、自分自身の行いを振り返る。)

「三には心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等(とんとう)を宗(しょう)する。」(心の過ちを止めるために、貪りの欲などを見極め、修養の心をもっていただく。)

「四には正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。」(私の健康と生命を支えるための「良い薬」として、この食事を受け止める。)

「五には正道(じょうどう)の為の故に、今此の食(じき)を受く。」(人間として正しく生きるために、今この食事をいただく。)

同じような食前の祈りに、キリスト教の「天におられるわれらの父よ。願わくば御名の尊まれんことを」で始まる感謝と願いの祈り、神道の「たなつもの 百(もも)の木草も天照す日の大神のめぐみえてこそ」という感謝の祈りがあります。

いずれも神に感謝をする祈りであり、信仰されている方にとっては大切な祈りだと思います。

これに対して、先ほどの五観の偈、確かに「偈」とは仏徳を称える意味で仏教の祈りではありますが、自らの日々の生き方を自らに問う言葉ともなります。

自分も言葉そのものを暗記して食事毎に唱えるところまではいきませんが、時々思い返しては、自らの日々の行いを省みて、美味しく食事をいただく習慣を心がけたいものです。

(学会 法務部会 常任理事 弁護士山田勝彦)

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